モルモン教会が多妻結婚を行っていたのは有名ですが、それが始まった当初は秘密にされており、会員の中でもよく知られていませんでした。多妻結婚が世間的に有名になるのは2代目大管長ブリガム・ヤングの時代からです。モルモン教会に多妻結婚を取り入れたのは、設立者であり初代大管長であるジョセフ・スミスですが、彼ががどれだけの女性と多妻結婚していたかは、秘密裏に行われていたこともあり調査が困難なようです。以下の資料は「昼あんどん」さんから提供していただいたものです。貴重な情報、ありがとうございます。
ジョセフ・スミスの妻たち
No |
名 前 |
結婚時
の年齢 |
結婚日 |
説 明 |
1 |
エマ・ヘール |
22 |
1827/1/18 |
エマは最初は多妻には猛反対で、ジョセフはエマ嘘をつき、隠れて多妻をした。
後にジョセフに多妻は神の啓示だと宣言され泣く泣く受入れたが、 ブリガム・ヤングの妻達の様に、妻同志の共同生活は許さなかった。 |
2 |
ファニー・アルガー |
17? |
1838? |
スミス家のメイドであったが、ジョセフとの密通がばれ、解雇された。
その後もジョセフと関係しつづけ、エマに内緒で結婚した隠し妻一号。 |
3 |
ルシンダ・ペンドルトン・ハリス |
37? |
1838? |
|
4 |
プレシンディア・ハンチントン・ビュエル |
29? |
1839? |
8番のジーナとは実の姉妹関係。 |
5 |
ナンシー・ミランダ・ジョンソン・ハイド |
24? |
1839? |
1832、3年頃、下宿先のジョンソン家の娘ナンシー・ミランダと関係をもった。 彼女は当時17、8歳であった。おそらく彼女がジョセフの初期の多妻の引き金になったと推測される。
ナンシーは後に、オーソン・ハイドの妻となる。 |
6 |
クラリッサ・リード・ハンコック |
35? |
1840? |
|
7 |
ルイーザ・ビーマン |
26 |
1841/4/5 |
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8 |
ジーナ・ディアンザ・ハンチントン・ジェイコブス |
20 |
1841/10/27 |
美人で有名。 ジェイコブスに嫁いで8ヶ月後に彼の妻であるままジョセフと結婚。 ジェイコブスはその時英国伝道に召されていた。
ジョセフの死後、ブリガムが望み彼の妻ともなった。 夫ジェイコブスはブリガムに押し切られ、ジーナを泣く泣くあきらめたという。
4番のプレシンディアとは実の姉妹関係。 |
9 |
メアリー・エリザベス・ロリンズ・ライトナー |
24 |
1842? |
|
10 |
パティ・バートレット・セッションズ |
47 |
1842/3/9 |
44番のシルビアの実の母。 |
11 |
デルセナ・ジョンソン・シャーマン |
36? |
1842? |
25番のアルメラとは実の姉妹関係。 |
12 |
ミセス ダーフィー |
? |
1842? |
|
13 |
サリー・アン・フラー・ガレー |
26? |
1842? |
|
14 |
ミセス A***・S*** |
? |
1842? |
|
15 |
ミス B**** |
? |
1842? |
|
16 |
エライザ・ロキシー・スノー |
38 |
1842/6/29 |
|
17 |
サラ・アン・ホイットニー |
17 |
1842/7/27 |
|
18 |
サラ・M・キンズリー・クリーブランド |
54? |
1842? |
|
19 |
エルビラ・A・コールズ |
29? |
1842/12? |
|
20 |
マーサ・マックブライト |
34 |
1842/夏 |
|
21 |
ルース・D・ボーズ・セイヤー |
34? |
1842/8? |
|
22 |
デズデモーナ・ワッズワース・フルマー |
33 |
1842 |
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23 |
エミリー・ダウ・パートリッジ |
19 |
1843/3/4 |
22番のエライザとは実の姉妹関係。 |
24 |
エライザ・M・パートリッジ |
23 |
1843/3 |
23番のエミリーとは実の姉妹関係。 |
25 |
アルメラ・ウッドワード・ジョンソン |
31 |
1843/4 |
11番のデルセナとは実の姉妹関係。 |
26 |
ルーシー・ウオーカー |
17 |
1843/5/1 |
ルーシーの兄ローリンがエマ・スミスと新しい家の件で出かけている 1、2週間の間に知り合い、彼らが帰って来る前日に結婚していたという。 |
27 |
ヘレン・マー・キンボール |
15 |
1843/5 |
ヒーバー・C・キンボールの娘。 ジョセフの啓示により妻を差し出すよう言われたヒ―バーは、 妻の替わりに娘を差し出す事で事無きを得た。 |
28 |
マリア・ローレンス |
19 |
1843/春 |
29番のサラとは実の姉妹関係。 |
29 |
サラ・ローレンス |
17 |
1843/春 |
28番のマリアとは実の姉妹関係。 |
30 |
フローラ・アン・ウッドワース |
16 |
1843/春 |
|
31 |
ローダ・リチャーズ |
59 |
1843/6/12 |
|
32 |
ハンナ・エルス |
30? |
1843/夏 |
|
33 |
メリッサ・ロット |
19 |
1843/9/20 |
|
34 |
ファニー・ヤング・ミューレイ |
56 |
1843/9/2 |
|
35 |
オリーブ・グレイ・フロスト |
27-8? |
1843/4以降 |
36番のメアリーとは実の姉妹関係。 |
36 |
メアリー・アン・フロスト・プラット |
34-5? |
1843/4以降 |
35番のオリーブとは実の姉妹関係。 |
37 |
オリーブ・アンドリュウズ |
25-6? |
1843/4 |
|
38 |
ミセス ブロッサム |
? |
? |
|
39 |
エリザベス・デイビス |
52-3? |
1843/4? |
|
40 |
メアリー・ヒューストン |
25-6? |
1843/4? |
|
41 |
ビエンナ・ジャックス |
55-6? |
1843/4? |
|
42 |
コーデリア・キャリスタ・モーレイ |
21-2? |
1843/4? |
|
43 |
サラ・スコット |
? |
? |
|
44 |
シルビア・セッションズ |
25-6? |
1843/4? |
10番のパティの実の娘。 |
45 |
ナンシー・マリア・スミス |
15-6? |
? |
48番のナンシーとは双子姉妹。 |
46 |
ジェーン・ティバーツ |
39-40? |
1843/4? |
|
47 |
フェベ・ワットラス |
38-9? |
1843/4? |
|
48 |
ナンシー・マリア・ウィンチェスター |
15-6? |
1843/4? |
45番のナンシーとは双子姉妹。 |
49 |
ソフィア・ウッドマン |
48-9? |
1843/4? |
|
出典
1.“No man knows my history” by Fawn M. Brodie, Ex-professor of history at the University of California.
(著者の Fawn M. Brodie は、 カリフォルニア大学の歴史学の教授であり、デビッド O マッケイ大管長の姪。この本の出版により後に教会から破門された)
2.「素顔のモルモン教」高橋弘著
モルモン教会は現在、多妻結婚を教えてはいません。逆に多妻結婚を提唱する人は背教とみなされます。このため現在の教会の公式なテキスト類には多妻結婚の正当性に関する説明は残っておらず、「昔そんなことをしていた時代もあったのだな」と感じさせる記述が散在するだけとなっています。しかしモルモン教会は1800年代、神の名のもとに多妻結婚を行っていたわけであり、1890年に「公式の宣言」が出されましたが、その内容は合衆国の法律が多妻結婚を認めていないのでわれわれも法律に従って多妻結婚をしないというものです。それならば、法律上、多妻結婚が禁じられていない国ではモルモン教会は多妻結婚をするのか?という疑問が出てきます。「公式の宣言」の直後、教会がそのように解釈してメキシコで多妻結婚をしていたという指摘もあります。
モルモン教会の指導者の中には、旧約聖書の中に古代の偉人が多妻結婚を行っていたことから、多妻結婚を行う権能は古代から存在しており、ジョセフ・スミスにその権能が与えられたので当時の教会員は複数の妻を持つことを許されたのだと説明する人がいます。そして「公式の宣言」後、その権能は取り上げられたので現在はだれも多妻結婚を行ってはならないというのです。しかし、その権能がどういうもので、いつ与えられ、いつ取り上げられたのか?なぜモルモン書で禁じている行為をしなければならなかったのか?を説明している人はいません。仮に多妻結婚を行いたいものは行ってもよいと神が承認されたのだとしても、上記の表にあるようにジョセフ・スミスは最初の妻エマの同意がないまま、あるいは秘密裏に多妻結婚し、時には他人の妻や結婚には年が若すぎると思える少女と結婚しています。ジョセフの多妻結婚は、子孫を残すためにやむを得ずロトの娘たちがした行為や、子供に恵まれないアブラハムが取った行為、モルモン書の中の主が『子孫を残したいと思うとき』に命じられての行為と同列にみなすことは困難です。
モルモン書の証人の一人、デビッド・ホイットマーは晩年の著書「An Address to all believers in Christ」の中で、「私たちは一夫多妻や霊的妻の教義を非難します。これは大きな悪であり、道徳的感覚に動揺を与える以上のものです。それは宗教の名のもとに行われているからです。人間によるものであって神によるものではありません。とりわけモルモン書の中で禁じられています。」と明言しています。そしてモルモン書を読む人に、「聖書の中にはダビデについて、今日のジョセフ・スミスより大きな憎むべきことが記されていますが、そのことが理由で詩篇を受け入れない人がいるでしょうか?ソロモンが多妻結婚をしていたという理由で箴言を受け入れない人がいるでしょうか?」というモルモン書を擁護する言葉も残しています。私はモルモン書を読む読まないはその人の自由だと思いますが、少なくともモルモン書を信じる人には、モルモン書の教えを受け入れるならば多妻結婚は正当化されないのだということは申し上げておきたいと思います。
モルモン教会の分派である復元教会は多妻結婚には当初から反対しています。実は近年まで、復元教会は多妻結婚はブリガム・ヤングたちがはじめたもので、ジョセフ・スミス自身は行っていないと主張してきました。これは復元教会の初代総裁ジョセフ・スミス3世が、モルモン教会の設立者ジョセフ・スミスと最初の妻であるエマ・スミスの間に生まれた子供であり、エマが決して夫の多妻を認めたがらなかったと言うことを表しているようです。しかし、多くの資料が物語っているようにジョセフ・スミスの多妻は事実行われており、それは復元教会も認めざるをえませんでした。復元教会の第6代総裁でありジョセフ・スミスのひ孫であるウォラス・B・スミスは「私は個人的にジョセフ・スミスが多妻結婚をしていないと信じているが、彼が多妻結婚を行ったのが事実ならばそれは間違った行為である」と言ったそうです。復元教会のスティーブン・L・シールズ氏は著書の中で「聖典の内容と教えや行いが調和しないとき、それらの教えや行いは正しくない」と聖典を重視する見解を述べています。これらのことから復元教会では、教会設立者としてのジョセフ・スミスを預言者として受け入れていますが、多妻結婚は神の意思ではなく誤った行いであったという立場のようです。
モルモン教会の宣教師は教会が過去に多妻結婚を行っていたことを教えません。このため教会に入ってから何年もたってから初めて多妻結婚の事実を知り教会を離れていく人が多くいます。当然であると言えます。教会が多妻結婚の正当性を教えることができない以上、過去の都合の悪い出来事を故意に隠していると感じるからに他なりません。そのような誠実でない教会に所属し続けたいとは誰も思わないでしょう。モルモン教会は、多妻結婚の正当性を説明できないなら、過去の多妻結婚は誤った行いであったと表明するべきです。また、過去のモルモン教会の影響により多妻結婚制度を続けている人たちがユタ州を中心に存在しています。彼らへ何らかの働きかけを行う責任が教会にはある、と私は思います。そうしたことがなされないままでは、過去を清算したことにはならないのではないでしょうか?